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「府中」の名が示す通り、古代・中世には国府・守護所が置かれ、丹後国の中心として栄えた天橋立・府中地区。 8世紀の丹後国風土記逸文では、拝師(はやし)郷<=速石の里>とされ、「神の御寝ませる間に倒れ伏しき」という天橋立の創成神話や往時の様子が記されています。
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国府とは、その国の役所(国庁)と、関連施設(国衙)を含んだ中心地域ことで奈良〜平安時代にかけて全国に配置されました。また、国府や鎌倉・室町時代の守護所が置かれた土地を府中とも呼びます。 丹後国においては、国府は天橋立を見渡せる景勝の地(現府中地区)に営まれたと思われ、大垣地区にある丹後一宮 元伊勢籠神社や、中野地区にある印役社(飯役社)という国印と府庫の鍵を祀る神社、国分地区にはその名の由来となった 丹後国分寺の遺跡 があるなど、古代丹後国府の記憶が今に残されています。
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歌枕とは、和歌を詠むときに使う地名を指します。ただ、実景を見て詠むのではなく、旅人の話や物語などの情報によってつくられた空想の景観であることが多かったようです。天橋立も歌枕。「音に聞く理想郷、生涯一度は見てみたい。」と誰もが願いますが、都から三日という遠さに憧憬を募らせるばかり。殿上人たちは宮中で開催される歌合せのつくりものや、自邸の庭園に模した天橋立を見ながら歌を詠んだといいます。
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室町幕府の三代将軍といえば、言わずと知れた足利義満。しかし、彼が六度も天橋立を訪れた事は意外に知られていません。文殊山から見た天橋立の姿に感動した義満はこれを「宇宙の玄妙」と評したといわれています。宇宙とは全空間を意味し、玄妙とは深い趣という意味で、最大級の賛辞であるといえるでしょう。
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雪舟等楊。画聖と讃えられる室町時代の禅僧にして絵師。幼少の頃、涙で描いたねずみが動き出したという逸話が有名ですが、六点もの国宝、数多くの重要文化財に指定される彼の絵の中でひときわ異彩を放っている作品が、国宝 天橋立図(京都国立博物館)。畳一枚分もの大きな絵には「丹後の都」としての天橋立・府中の姿が詳細に描かれています。 一見すると写生のように見えるこの絵、ところが日本絵画史上、最も謎が多いと言われているのです。 まず、全体は一枚の紙に描かれているのでなく、寸法の異なる20枚の紙を貼りあわせていること。 また、落款も印章もないので下絵と考えられていますが、本当に雪舟が描いたかどうか不明でした。
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天橋立図は寛政12年(1800年)には土佐藩主の山内家が所蔵していた記録が残っている。秋田藩主だった佐竹家が模本を書くために貸して欲しいと願い出たが、貸し出す条件として、「これまで外に出したことはないので他言無用」と告げられたという記録があるなど、文字通り門外不出として扱われていた様子。また、本絵の所在については1918年に権威ある美術誌「国華」に「伝説によれば徳川将軍の府庫に雪舟の描きし此の真景がありしが、是はその稿本なり」とあり、今は所在不明と解説されている。
山内家といえば大河ドラマでもおなじみで、中でも坂本龍馬の物語に登場する山内容堂が有名だが、土佐藩では夏に行なわれる土用干しの際にも、この絵に限っては三日間の不寝番をつけるしきたりになっていたほどである。 その土用干しが行なわれたある夜のこと。藩主であった容堂が、たまたま『天橋立図』を守るためにつけられていた不寝番の近くを通りかかった。容堂は『天橋立図』に不寝番がつけられる藩の先例を知らなかったらしく、近習者に対して、「あれは一体何をしている者か?」とたずねた。 近習者が「あれは雪舟の絵の番をしている者にございます」とその理由を説明すると、容堂は自らの居室に戻るや、紙と筆を取り出し、一文を草して、それを藩の重役に渡すように命じた。 その紙片には、次のような短い漢文が書かれていた。 「使汝不眠者余之罪也(汝を眠らざらしむるのは余の罪なり)」 容堂はその短い漢文に、「水墨画一つに不寝番を三日もつけるなど、そんな古いしきたりは止めるように」という意を暗に含んで、そう書いたのである。 この一件以後、『天橋立図』に不寝番はつけられることがなかったと、旧土佐藩士であった細川潤次郎が明治になって語り残しているという。いかにも稀代の風流人であった山内容堂らしい逸話だと言えよう。 その後、1918年に東京・上野で開かれた展覧会に容堂の二代後の当主で侯爵の豊景が出展してから、世の注目を浴びるようになり、今日に至る。 (2010.11/天橋立府中観光会 作)
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